2012年8月26日日曜日

KORITE-コリテ‐

8月20日、ラマダン明けのお祭り、KORITE(コリテ)が行われた。お祭りといっても、特に何かをするというわけではなく、親戚一同集まって挨拶して、ラマダン明けにふさわしい豪華な食事(大体肉が入っている)を一緒に食べて楽しむといった具合。

早速、セネガル服を着て、配属先上司、友人宅、大家さん宅に挨拶も兼ねて訪問してきた。

1.配属先上司宅

配属先は隣町だけど、直属の上司がDahraに住んでいるので、休暇許可証や、活動報告書等で何かしらよく訪問しに行く。約1ヶ月ぶりくらいの上司との再会。とりあえず、お土産(炭酸ジュース)を渡し、挨拶をして、その後近況報告や今後の活動計画について話をした。

他のIDEN(教育委員会)や上司の様子については分からないけど、私の上司は比較的ボランティアに対して理解があり、協力的である。10月からようやくバイクが貸与され、村落部の学校巡回(1ヶ月で目標30校)するから再度学校のリストが欲しいと伝えると快諾してくれた。11月には学校関係者、村住民、保護者に対してアンケート調査したいと思っている旨を伝えると「それは良い考えだね」と言ってくれた(配属先によってはボランティアの話に耳を傾けてくれない人もいるとの事なので、話を聞いてくれるだけでも有難いと思っている)。配属先が遠い上に直属上司としかなかなか接点がないのだけど、現場での活動を通して得た情報を伝えていき、それを形に残せるようにできたら配属先にも少しは貢献できるのかなと思う。そのためにも、統計の勉強頑張らないとね。そしてExcel使える優秀なMelakhの校長先生に負けないように!

隣にいるのが私の配属先上司。4月から提出している活動報告書のフランス語を訂正してくれる(笑)。有難い。いつか、訂正する必要がなくなるくらいフランス語できるように頑張ります。

配属先上司の子供達

子供達と一緒に写真撮らせてもらいました


2.友人宅

Gabuga村に一緒に行ったBesoum宅にも訪問し、昼食を頂いた。

ポテト、羊肉、玉葱ソース。これらをフランスパンと一緒に食べる。美味!

かれこれ5回くらい家に御邪魔しているのだけど、未だにお客様扱いをされる。別に悪い事ではないのだけれど、お客様扱いされるような身分でもないし、日本人だからといって、特に彼らに金銭的に何かを与えるつもりもない(セネガルでは日本人=金持ちと思われる傾向にある)。そして彼らもそれを望んで私を受け入れてくれているわけではない事を分かっている(特にBesoumはお土産をもってくるとなぜか怒る)から私はこの家によく来ているのだけど、ただ、座っているだけで毎回ヨーグルトやミルクを頂き、何も手伝わないのはなんだか気が引けてしまうのである。そして、久しぶりにセネガル人宅にいて居心地悪さを感じてしまった。

後、Besoum宅に久しぶりに訪問して感じた事は異なる言語においてコミュニケーションを取る事の難しさ、自分の言いたい事が上手く言えないもどかしさを痛感した。

Besoumの家族は皆大体ウォロフ語できるけど、プル族だから基本的にプラール語で話をする。私も少なからず挨拶程度は覚えて言えるくらいになったけど、会話するまでには至らない。かといって、ウォロフ語も堪能ではないし、フランス語も中途半端なので、会話するのが非常に大変。(ラマダン期間中、比較的家で作業している事が多かったので、久しぶりのセネガル人宅長時間滞在、交流でコミュニケ―ションを取る事が前以上に難しく感じたのかもしれない。)

相手の言っている事が上手くイメージできない事、自分の言いたい事を上手く言葉にできない事がこんなにもどかしいと感じたのは久しぶりだった。恐らくこう感じるのはBesoumやその家族(特に父)との会話が日常会話ではなく、その一歩先、つまり会話の内容が深いからなんだと思う。色々な事に関心をもっているし(その日は日本、中国、台湾間の尖閣諸島問題について色々聞かれた)、言葉一つ一つにおいても、日本語ではなんというか?フランス語、プラール語、ウォロフ語でなんというか?という会話が頻繁にある。日本に関心をもってくれ、温かく受け入れてくれるのは大変嬉しいけど、会話がかみ合わないと多少苛々したり、「フランス語できないもんね。」と言われるとやはり私だって傷つく。

セネガルに来るまで私は異なる言語での会話において不快感、困惑、もどかしさをここまで感じる事は今までなかった。英国留学時でも、イギリス英語になかなか慣れなくて困る事は多少あったけど、会話においてそこまでもどかしさを感じる事はなかったし、英語が分からないといって見下されたりする事はほとんどなかった(ただし、開発学のセミナー(私以外全員イギリス人)のプレゼンの際に一度だけ「Vote」の発音が「Boat」に聞こえて嘲笑されたという苦い経験はある)

最近、Dahraに遊びにきていたセネガル人の旦那をもつOGさんが「その国の言語ができないと話者との間で上下関係が生じる」という話をしていて納得したことを思い出した。セネガルにいる以上、その国の公用語、現地語ができないとその中での上下関係は下にならざるをえない。事実、言語ができない事でセネガル人から馬鹿にされている日本人ボランティアはいる。7ヶ月目にしていまだここまで言語で悩むとは本当に自分は甘かったなと思う。セネガル人との交友関係や信頼関係構築していく事はそこまで大変ではないけど、ここで仕事をする以上、一緒にやっていく以上、やはり言語習得するしかない。日本人=お金持っている、JICAのボランティアとして来ているから何か頼めばやってくれるかもしれない(金銭的な意味合いで)、こんな気持ちだけで頼られるようなそんなボランティアにだけはなりたくないと改めて思った。

3.大家さん宅

最後に昼食、夕食をよく頂き、日々御世話になっている私のアパートの裏に住む大家さん宅に挨拶、訪問してきた。

私の大家さんはDahraで1番金持ちと言われている。現に家にはソニーの40インチくらいの液晶テレビ、ソファ、エアコン、冷凍庫、オーブンがある(私の家より快適)。奥さんが2人いて、そのうち1人がDahraに住んでいる。普段、奥さんは大家さんが経営している店で働いているので、家の仕事は大体お手伝いさんがしている。昼は多くて4人、夜は2人雇っている。こういう暮らしぶりを知るとセネガルは貧しいと言われるけど、単に貧富の差が大きいだけではないかと思う。村に行くとその違いが顕著に分かる。

ポテトフライ、鶏肉、玉葱ソース(ちなみに鶏肉はセネガルでは1番高価な肉である)

昼食の様子。大家さんの家では食事は男女別々である。その理由は単に男性の中に女性が入って一緒に食べるとたくさん食べれないからだそうだ・・。なんか不思議。

大家さんの姉の娘、Mama

タイトルには「Korite(コリテ)」と書いてあるけど、実際内容がこのKoriteを通して自分が思った事とか自身についての振り返りみたいな記事になってしまった。すみません。

ラマダン期間中、セネガル人と会う時間より独りで過ごす時間が増えたせいか色々良い意味でも悪い意味でも考えちゃう癖がついちゃいました。とりあえず、ラマダンも終わったので、フランス行くまでにできる限り活動を進めていきたいと思う。

2012年8月18日土曜日

セネガルに来るという事

今日、先輩隊員と話していて気になる事、自身について振り返る事があったので、ここに記すとする。

先輩隊員は残り5ヶ月で帰国を迎える。そろそろ次の進路について考え、悩む時期でもある。中には仕事を辞めてきている人、新卒ブランドを捨ててきている人、色んな人が協力隊としてセネガルに来て活動している。

その中で私は大学院2年間休学し、その後復学し、就職活動をして卒業を迎える予定である。周りから見ればきっとある意味守られている環境の中、セネガルに来ていると思われていても仕方ない。

どんな環境であれ、状況であれセネガルに来る事を決めたのには何か理由があるはず。それを縁と捉える人もいるだろう。

私が最も気になる点として、セネガルに来る事を自ら決断したにも関わらず帰国後の人の目や反応を大いに気にしている所。

日本人の中には内向きな人もいるし、海外に興味ない人だっている。そういった人から見ればやはりセネガルでの経験は凄いと思われる部分もあるだろう。にも関わらず当の本人達が自身の経験を凄いと思っていないとして周りがそう思う事に対して嫌悪感を抱くのは何か間違っていないだろうか。むしろ関心をもっていてくれる人がいたらどんどん積極的に話していけばいいのではないだろうか。

そうこう考えていると、セネガルに行く事をなかなか決断できないでいた2011年4月から6月あたりの自分を思い出した。あの頃の私は開発分野で働く決意をして大学院浪人までしたものの、いざ大学院に入学してみると周りが就職活動の話をしていたり、協力隊としてセネガルに行こうと思っている話をすると驚かれたりと国際開発研究科なのに同じ志をもっている人の少なさに落胆し、少しばかり自分の進路に対して見直し始めた(協力隊辞めて、就職活動しようかと考えた時期もあった)。色々振り返ると、私は物凄く周りの見方を気にしていたように思う(協力隊後、就職するのが遅くなる事に対する焦燥感も感じていた)。大学院浪人していた時期は周りの見方を気にしてもしょうがないし、自身の達成すべき目標(大学院に合格する事)が明確にあったからあまり気にする事はそこまでなかったけど、大学院に入学してからは自身の中にある目標に対する気持ちが薄くなりつつあった。それも周りの影響があったとはいえ、自身の中のモチベーションみたいなものが十分に確立できていなかったのだと思う。

今でもその目標においてやはり揺らぐ時はある。けれども少なくともセネガルに来て本当に良かったと思っているし、何よりあまり周りの見方も気にならなくなった。興味・関心を持ってくれる人は何かしら連絡をくれるし、自身の活動を応援してくれる人もいる。後は身近な人の理解や応援によって本当に支えられていると感じる。分かってくれる人、よき理解者がいる、それだけで十分だなと思った。

帰国後、就職活動等で全く関心ない人に説明しなければならない場合、かなりのもどかしさを感じる事はあるかもしれない(なかなかセネガルに来た事のない人に全てを説明する事は難しい部分がある、自分の説明能力も関係しているとは思うが・・・・・)。

でも、何より大事なのは何かしら理由、縁があってセネガルに来て、2年間過ごした経験を言葉にできない、自分のやってきた事に自信がもてないのはもったいないと思う。それもこれも相手にどう見られるかを気にしている事が大きな理由だと思う。

色んな隊員を見てきたけど、なかなか自信もってやっている人は少ない。謙虚に見せているだけなのかもしれないけど、私からしたら疑問点が思い浮かんでならない。

そうこうしている間に残り1年5ヶ月。長いように見えて実は短い。この期間内に自身のやりたい事、やれる事は徹底的にやり遂げたい。

2012年8月17日金曜日

Saint Louis noooooooos! -サンルイ旅行-

8月11日、腹痛もおさまり元気を取り戻す!当初予定していたプラン(誕生日をサンルイで過ごす)は実行できなかったけど、遅れてサンルイで友人と無事合流!

ちなみにIsland of Saint-Louis、サンルイ島はセネガルの世界遺産の一つとして知られています(もう一つの世界遺産はゴレ島)。17世紀にフランスの植民地の拠点とされ、1872年~1957年までセネガルの首都として栄えていました。フランス人商人はゴムや皮、象牙などの貿易で島を繁栄させていたそうです。



サンルイ到着後、先輩隊員宅にて荷物を置かせて頂き、スペイン料理屋「SHIKI」にて昼食を頂く。

カルパッチョ、クロケット(コロッケ)、イカフライ、羊チーズ入りパスタ、どれも美味!

SHIKIにて



 サンルイの港

昼食後は、サンルイ島散策!事前に友人が店を把握していてくれたので、すんなりとお店に到着!

 Keur Fall フェアトレードの商品が置いてある。恐らくサンルイで1番高いと言われる服屋さん。ここでストールをゲット!

Rama Collection ワンピース、小物が可愛いお店 

お店の中の様子

コキの端切れ布ポショットがここでも買える。

今回、健康管理員が休暇中で、ダカールで行った病院の診察代や薬代等立替の費用を受け取れなかったため、非常にお金がなく、友人にお金を借り、なんとかワンピース1着、ストール、麻布パンツ、ペットボトルケース、日本に送るお土産等購入。友人には本当に御世話かけました。有難うございます。

そして、11日の夜、先輩隊員が夕食を準備してくれているとの事で、行ってみると、炭火で焼いたタイ、焼きそばが用意されていた。その後、友人がまさかの誕生日ケーキを準備してくれて本当に感動。素敵な良い仲間をもちました!

サンルイ隊員、友人が誕生日を祝ってくれました!

タイをわざわざ炭で焼いてくれ、美味しいエビ入り焼きそばを作ってくれたサンルイの先輩隊員!本当に有難うございました!そして愉快なルーガ州の隊員、まさかのケーキ準備してくれて本当に有難う!皆様、本当に感謝!

8月12日、11日に買い物を十分堪能し、次はホテルでのんびりする事に。先輩からプール付の素敵なホテル「Cap Saint Louis」を紹介してもらい、いざ出陣!

Rama Collectionで買ったワンピース着て、バックパックを担いで準備万端

 ホテルの近くの砂浜

ホテルのプール

 一生懸命平泳ぎしています

いっぱい泳ぎ、はしゃいだ後の一杯は美味し

そして、11日に伊勢海老を捌いて食べる予定が結局食べれなかったので、ホテルのレストランにてリベンジ!感動するくらい美味しかった!
 念願の伊勢海老~~~~ Longouste

サンルイ最後の夜にふさわしい晩餐でした

 食後のデザート(シューにアイスが挟まっていて、上からホットチョコレートがかかっている) シェフの大サービスで3つも用意してくれた。

 伊勢海老、デザート大サービスしてくれたシェフと一緒に。

セネガルでの生活、活動は色々大変な事もあるけど、こうやってリフレッシュしたり、楽しめる場所があるのは本当に有難い。胃腸炎になって大変だったけど、健康体で過せたので本当に良かった。これで暫くDahraで活動、勉強等頑張れそう!

サンルイのマルシェ(市場)でエビも購入したので、エビ料理を堪能しようかなと思う!

Merci beaucoup pour donner des chances de m' amuser à Saint Louis. J'y vais visiter encore.

2012年8月16日木曜日

療養、そして誕生日@ダカール

まさかの療養でダカールに至るまでの過程等を時系列にて纏めてみました。備忘録でもあるので少々読みにくいかもしれませんがご了承ください。


8月6日、Gabuga村から朝9時くらいにDahraに帰ってきて、暫く休んでいると、昼過ぎくらいから急に関節、右下腹が痛くなり始めたので横になって休む事に。その日、ちょうど先輩隊員と私の家で牛タン大会(単に牛タンをたくさん食べようの会)をしようという話になっていたので、夕方から準備をしなければいけなかったのだが、なかなか腹痛が緩和せず、しかも右下腹=盲腸?みたいな感覚に襲われ、ひとまず、健康管理員に電話する事に。

すると、なんと次長が出てしまい、番号間違えたかな?と思うと、実は健康管理員が休みであった事に気づく。そして、担当の調整員に相談すると、やっぱり病気に関しては分からないので、「次の日検査で上京してきたら?」と言われてしまう。

878日に大使館、WFPの方がダーラ方面に出張で来るかもしれないとの話があり、アテンドを頼まれていたので、とりあえず7日様子を見る事に。6日の夜に378度の熱が出たけれども、その日1日中休んでいると熱が平熱(36.6度)に戻ったのだが、やはり多少の腹痛を感じていて、その旨を伝えると「藤本さん、その腹痛の原因が気になるから検査のために明日ダカール上京してきてください。」と調整員から言われてしまった。結局、大使館、WFPの方はダーラ方面の出張はなくなったので、8日にダカール上京しても問題はなかったのだが、10日から13日までルーガ州の隊員とサンルイに旅行(彼女たちにとっては任国外)に行く予定だったので、検査にひっかかったらまずサンルイに行けないという可能性が出てくるためそれを覚悟してダカールに上京した。

8日、早朝7時過ぎにガラージュ(バスステーション)に向かい、結局ダカールに到着したのは14時過ぎ。待ち時間も合わせると7時間かかっているわけである。その後すぐSOSMedecin病院に行き、診察してもらい、その後血液検査をして結果は18時過ぎに電話で伝えますとだけ言われて隊員寮に向かった。案の定18時過ぎに病院から電話がなかなかかかってこなかったのでこちらから電話をかけると、とりあえずマラリア検査はネガティブでCRP(炎症反応)の数値が少し高めだったけど、特に異常はないとの話だった。医者にも確認すると3日間はジャガイモ、ニンジン、ご飯、パスタ、バナナは食べていいけど、肉、魚、ジュース、フルーツ、ヨーグルト等食べてはいけないと言われた・・・・。

9日、検査結果を病院まで取りに行き、改めて医者に病名等を確認すると「急性胃腸炎‐gastro-entérite aigue-」と診断される。特に血液検査から異常はなかったので明日にでも任地に帰って良いと言われホッとする(その後サンルイに行ける事を確信する)。そしてようやく薬局へ行き、薬を購入し、寮で安静にする事に。しかし、その日病院にまさか携帯を置いてきてしまうという失態を犯し、次の日(10日)に8時半に再度病院に向かう事になる・・・・・。

10日、携帯を病院に取りに行った後、JICAに提出する書類に追われる。昼過ぎに書類一式を調整員に提出し、ようやく落ち着いたので、9月のフランス旅行計画立てたり、ダカールに上京している隊員と話をしていた。この日実は大使館の人と夜会う予定があったのだが、仕事の都合上結局会う事ができなかったので、また次の機会に会いましょうという話で纏まった。とりあえず、時間ができたので、ダカールに上京している隊員と一緒に簡単な煮物とサラダを夕食に作った。作ってる最中に調整員から電話がかかってきて、「渡すものがあります」と言われたので、何か書類の不備かな?と思いきや、フランスのエリックカイザーのケーキだった!

ダカールに上京していた隊員と!

エリックカイザーのケーキと手作りケーキ!

誕生日にまさかの療養@ダカールで結構落ち込んでいたのだけど(本人はそれをネタにせざるをえなかったのだけど)、こうやって色んな人達のおかげで楽しい誕生日が過ごせた事に感謝。何が起こるか分からない、そんなセネガル生活だけど、自分次第で楽しくもなる!そう思わせてくれた仲間達に非常に感謝。私、やはりめぐみだけに人に恵まれているようです!

日本にいる家族、友達、大切な人達や尊敬している人達からメッセージや電話を頂き、本当に幸せです。離れているけれど、本当に支えてもらっているなと感じております。

25歳、まだまだ未熟だけど、御世話になった方々に恩返しできるよう、より成長して日本に帰ってきたいと思います!

Merci beaucoup pour votre message et m'appeler. J'était très contente. Bien que j'ai 25ans et c'est encore jeune, je veux grandir et avoir confiance en soi-même pendant que je reste au Sénégal. 

Gabuga村訪問

長らくブログ更新しておらず、誠に申し訳ありません。雨季で停電が増え、インターネット環境が良くなかったり、体調不良になったりと、なかなか更新できずにいました。

85日、友人の母方の実家があるGabuga村に行ってきた。任地Dahraから約20㎞先にあり、電気も水もない村なので、水を確保するためには8㎞先の水場まで水を汲みに行かなければならない。家にはもちろん、トイレやシャワーを浴びる場所も確保されていないので、つまり人目のつかない場所を見つけなければならない・・・。

Gabuga村まではDahraから乗り合いバスが出ているので、今回そのバスで私達は村に向かった。そのバスと言われる車は日本でいうトラックにあたるもので、荷台に椅子があり、列が5列に一列6人掛けで座るので、計30人に加え、家畜だの、油だの、野菜だの色んな物を詰め込んだ状態で動くので左右に車が揺れる事が頻繁に起こる。非常に怖いので、もう二度と乗りたくないと思うくらい(でも、乗らないと帰れないので乗らざるをえない・・・)

イメージとしてはこんな感じ(※実際はこんなに人数も荷物もありませんが・・)

車が1日1便しか出ていないので、村での宿泊を覚悟して今回Gabuga村に行った。夕方から村に向かい、翌朝早朝にDahraに帰るという予定だったので、ラマダン中でも大丈夫かなと思いつつ不安を抱えながらの村訪問、宿泊だった。

雨季の影響もあってか、村の景色が緑一色で本当に眺めていて気持ちがよかった。Dahraは田舎といっても、商業都市にあたるので、多少栄えている反面、ゴミが多く町の風景としては汚い。




友人の母方の実家



任地Dahraのマルシェ(市場)付近の一部の様子

今回、Gabuga村に訪問した目的は①前から友人に一度電気もない、水もない村を見にきてほしいと言われていた事、②私自身、村人の生活の様子を見たいという気持ち、今後の活動の参考にしていきたいという事からラマダン中にも関わらず村宿泊に挑戦した。

結果的にGabuga村に行って本当によかったと思っている(次の日には右下腹が痛くなるという事態が起こったのだけれども笑)。というのも、今回、一緒に村訪問した友人と一晩話して彼女が普段思っている事や考え方が分かったし、色々深く話ができて本当によかった。彼女は中学生(15歳)にも関わらず本当に色んな事を知っている。父が医者でフランス、チェコ、ドイツ、アフリカ諸国等出張で行っていた影響を受けているからだと思うけど、アフリカの政治(ジンバブエのムガべ大統領の独裁政治etc)や民族(特にプラールとウォロフの違いについて)、言語(フランス語は西アフリカで使える、プラール語はプル族がナイジェリア、マリ、ブルキナ等西アフリカ諸国にいるため今後使える言語である事)について色々教えてくれた。そして、彼女はプル族であるため、実は普段ウォロフ族に対してウォロフ語を使うけど、基本的に使いたくない、だから私と話す時にウォロフ語では話したくないと言われた。なので、フランス語が使えるチャンスだと思い、頑張って使おうとするのだけど、やっぱり私の頭はウォロフで占められている事を痛感し、フランス語の勉強しよう、話す機会を設けようと心の中で誓った。

水のタンク
毎日水場まで行き、このタンクに水を溜めて使用している

後、今回のGabuga村訪問で私は単純に村や村人が好きなんだなと再確認できた(だからといって、文化人類学者みたいに調査のためではあっても長期間、村でホームステイができるとは思っていないのだけど)、今の職種を選んだ理由や今の道を歩む原点が鮮明になった気がした。がっつり教育系の職種(青少年活動や小学校教諭)ではなく、敢えて村落開発普及員の職種で教育委員会配属の要請を希望したのも町の学校ではなく、村落部の学校での活動(授業の質向上より、学校環境・学校運営に関心があった)を希望していたから。村への執着はきっと、英国留学時代に行ったモロッコの砂漠ツアーでの砂漠宿泊の経験、インドネシアのコトパンジャンダム調査(※)に同行していった村宿泊、訪問に起因していると思われる。

※2009年9月に初めて日本のODAによって建設されたインドネシアのコトパンジャンダムの裁判を知り、それ以降コトパンジャンダム被害者住民を支援する会の活動に関わらせてもらっている。2010年12月に裁判に向けての調査で事務局メンバーと弁護士さんの調査に同行させてもらった。

参考までにhttp://www.kotopan.jp/

結局、振り返ると色々と今まで経験してきたことって今に繋がっているんだなと思う。来たばかりの頃は言葉もままならないし、なかなか生活、セネガル人に慣れなくて日本に帰りたいとさえ思ってしまった時期もあったけど、半年経ってようやく生活も慣れてきて、セネガル人との信頼関係も構築できてきてここに来て心からよかったと思うし、今後の自分の進路においてセネガルでの2年間の経験は必ず活かせるという確信がもてた。

村に訪問する機会をくれた友人、Besoumには本当に感謝。10月から本格的に開始するアートマイルの壁画制作プロジェクトも一緒にやっていこうと思っている主要メンバーの1人なので、これからも御世話になるかと思う。彼女の今後に期待している。

 BesoumとKa一家


KhadyとHawa

 Besoumと朝食

 ミルクと小麦粉を混ぜたもの。名前を忘れてしまった。正直に美味しくはない

パキスタン産の米